2015年7月31日金曜日

2015年度映画大学集中講義のレジメ2:著作権法の現在と未来(2015.7.23)



21世紀の著作権法とは何か?その未来はどこにあるか?

2015年7月23日

レジメ→ワード版



1、イデオロギーとは 法律とは
(1)、イデオロギー
 政治や社会のあるべき姿についての理念の体系(知恵蔵2015)。
       ↑
(柄谷行人)

一見して誰も反対できないような普遍的な言説のこと
普遍的な言説に対しては、何(What)が語られているかではなく、誰(Who)が語っているのかを読むことが肝心。

∵ 単に彼らの利害にすぎないものをあたかも普遍的なものとして表明したのがイデオロギーにほかならないから。
 
(2)、法律
 法律はイデオロギーの典型。そこでは、常に誰かの利害でしかないことが普遍的な言葉で語られている。
著作権法とは、著作権ビジネスの覇者である産業資本家の利害を普遍的な言葉(コンテンツを創作した著作者・実演家を保護し、芸術・文化を育成する)を使って擁護したもの。

2、著作権法の「市民革命」とその条件
 著作権法は、情報資本主義が本格化した1980年代から毎年盛り沢山、華々しく法律改正をくり返してきた。しかし、その内実は著作権法の原型ができた1710年のイギリスのアン法以来、300年間本質的には何の進歩・変容もない。変わったように見えるのは新しいテクノロジーの出現だけである。
 著作権法の本音は著作権ビジネスの産業資本家たちの利害を守ること、つまり彼らの望む産業経済秩序を維持することにあるのだから、技術革新により新しい複製技術が出現し、それが新しい著作権ビジネスの経済秩序を形成する時、この新しいテクノロジーを用いた経済秩序の維持のために著作権法の改正が次々と実施されるのは当り前のこと、それは退屈ですらある(おまけに、ただでさえ悪文の著作権法がますます分かりづらくなる)。
 例えば、複製技術として、音楽でレコードと蓄音機が発明され[1]、映画でフィルムと映写機が発明され、新しい音楽産業、映画産業が出現したとき、無断複製(海賊版)による音楽産業、映画産業の賭場荒らしを防ぐ(産業秩序維持の)ために、レコードや映画の無断複製を取り締まる法律を作る必要が生じる。ただそれだけのこと。
しかし、著作権法の本当の進歩、恐るべき変容はそんな華々しいところにはない。

 著作権法の真に革新的な進歩・変容とは、著作権法の表向きの目的(著作者・実演家を保護し、芸術・文化を育成)、表向きの主役(著作者・実演家)、表向きの性格(人権擁護)を、名実共に著作権法の目的、主役、性格に転換してしまうような進歩・変容のことである。

 これは著作権法がこの世に誕生して以来三百年の間一度もなかったような進歩・変容である。いわば「著作権法の市民革命」である。この市民革命はいかにして可能なのか。

そのためには、
第1に、客観的(物質的、経済的)条件である「目標に相応しい経済システムの出現」
第2に、主体的条件である「目標に相応しい理念・アイデア・人の出現」[2]
の2つの条件が必要。
このうち、第1の条件は既に実現した、インターネットというシステムの出現によって。
 30年前、グーテンベルグの活版印刷術の出現を上回る、世界史上未曾有の画期的な出来事、インターネットの出現[3]である。これが「著作権法の市民革命」を促す物質的条件をもたらした。これがいかなる意味で画期的で、市民革命の物質的条件なのか。

 それはコンテンツ(著作物)の生産・流通過程にコペルニクス的転回をもたらしたから。

 従来、著作権ビジネスは、コンテンツを制作する著作者とこれを利用する一般ユーザーとの間に、コンテンツを複製・頒布する業者が介在し、彼らの存在なしにはコンテンツを広く世に提供することは不可能だった。なぜなら、コンテンツの生産・流通(複製・頒布)のためには、多額の資金と組織が必要であって、それは個人の著作者の手に余ることであったから。

 実は、(今から思えば)こうしたシステムに支えられて、著作者と一般ユーザーとの間に介在して、コンテンツの流通を支配する出版社、レコード会社、映画会社、テレビ局などの企業が著作権法の主役として活躍し得たのである。つまり、真ん中に主役を置いて、コンテンツが著作者から主役を通して一般ユーザーに流通するという構造、これが著作権法がこれまでずっと前提にしてきた基本構造だった。
  

 その後、テクノロジーの進歩に伴って、家庭内録音・録画の機器が普及し、かつてはあり得なかった一般ユーザーレベルにおける広範な私的複製が一時期大問題となったが、しかしこれによっても、この基本構造自体が揺らぐことはなかった。
 
 ところが、変化は全く思いがけないところからやってきた。それが元々軍用目的で始まったインターネットというテクノロジーである。

 このテクノロジーが画期的なのは、これまでコンテンツを世に流通させるためには、「資金と組織を擁する企業の介在」が不可欠であったのに対し、インターネットの活用によって、著作者は、個人として、コンテンツを広く一般ユーザーに直接提供することが可能になった。この新しいシステムの出現に伴って、これまでコンテンツの流通に介在し威張っていた企業は理論上は粗大ゴミのごとき無用の存在に転落する。それはまた、同時に、これまでの著作権法が大前提にしていた基本構造を根底から破壊するものであった。その結果、著作権法の目的・本質、主役、性格などに決定的な変容を招来することになる。


 これが、この間の著作権法の改正では全く捉え切れない、日夜じわじわと浸透している著作権法の本質的な進歩、恐るべき変容を実現するための物質的条件である。

 以上から、インターネットの時代は、創造的なコンテンツ(著作物・実演)を制作できる優秀な個人の著作者・実演家が制作と流通を自らコントロールすることを可能にする時代である。つまり個人が主役になれる時代である。その物質的基盤はそろった。残るは、第2の主体的条件「目標に相応しい理念・アイデア・人の出現」である。
インターネットの画期的な物質的基盤を前提にして、今後、著作権法の目標は、
(1)、主役は、名実共に、個人としての著作者・実演家であり、
(2)、性格は、名実共に、個人法=著作者という個人を保護するための法であり、
(3)、目的は、名実共に、個人としての著作者・実演家の権利を擁護するためのもの。

 この目標に相応しい理念とは「創作・実演により現実に価値を生み出した個人にその創作活動・実演活動に相応しい権利と自由を保障せよ!」である。
この個人の権利保障という理念の復興・再生という意味で、インターネット時代こそ著作権法ルネサンスと呼ぶに相応しい。


3、著作権法の市民革命の主体的条件の具体化(アイデアと人)
 主体的条件である「目標に相応しい理念」を、さらにアイデア・人のレベルにおいて具体化する必要がある。
この理念に基づいて著作者(クリエーター)・実演家(アーティスト)が始める取り組みは「新しい芸術運動」である。それはもちろんコンテンツ(著作物・実演)の質における新しさをめざすものであるが、それと同時に、コンテンツ(著作物・実演)の制作・流通のシステムを過去のものから根底的に変革することをめざすものであって、その点において不撓不屈の開拓者であることがこの取り組みの成否を握る重要な鍵となる。

参考実例
◆海賊党
(1) もともとインターネットは情報の共有のためのもの。情報の独占をめざす著作権・特許と衝突・対立するのは必然。最終的には、情報の共有と独占をどう調整するかという問題。  インターネットが生み出した第三身分とは何か=エンドユーザの登場。


(2)、歴史
 2005年、スウェーデンは、インターネットを通じてソフトウェアや映画などをファイル共有することが違法とする法律が制定。その結果、100万人のファイル共有者たちは犯罪者扱いとなった。これに反発した若者たちがファイル共有の合法化を公約とする海賊党を結党。                              スウェーデン海賊党旗
スウェーデン海賊党の活動に鼓舞され、瞬く間に40カ国以上の国々で海賊党が結党。
海賊党による国際組織海賊党インターナショナルも組織。2009年6月の欧州議会議員選挙で、海賊党は1議席を獲得。
            ドイツ海賊党旗



メンバーはインターネットを使いこなす30歳前後の若者が中心。

(3)、主張
著作権法:
①「正直者の寝室(プライベートな空間)に忍び込むな」→ファイル共有の完全合法化・無料化。
②「著作権の保護期間が長すぎる(死後50年・70年)」→5年で十分。
特許法→廃止。
∵製薬業界の研究開発の3分の2が、新薬開発ではなく、ライバル企業の特許を回避するための。もし特許法がなければ、これを本来の新薬開発に充てるか、薬代を安くできる。
参考:海賊党党首に聞く
動画(活躍!ドイツ海賊党 ~ネット世代の政治のゆくえ~
スェーデン海賊党→ウィキペディアの解説

ドイツ海賊党→ウィキペデディアの解説 
書籍 浜本隆志「海賊党の思想: フリーダウンロードと液体民主主義」(2013.6.25)
       液体民主主義について

 

◆映画:新藤兼人 彼の起業の検討 詳細→こちら


◆出版:批評空間社
【設立の動機】
 資本制経済において、著作権ビジネスは、他者(著作者・実演家)は利潤追求のためのたんなる手段としてしか扱われない。これに対し、批評空間社は他者を「手段としてのみならず、目的(自由な主体)として扱う」(カント)ことを目指し、生産にかかわる者が皆で出資して組織を立ち上げ、組合内においては、各人がその出資額にかかわりなく、平等な経営議決権をもって、組合事業を運営しようとした。これが協同労働・協同経営、つまり生産協同組合の基本理念といわれるもの。

【協同労働・協同経営の追求】
 ただし、日本の法律制度はこの理念を明文化していない。そこで、問題は、「自由で平等な生産者たちのアソシエーション(協同労働・協同経営)」を正面から認めていない現在の法律制度の中でいかに具体化していくか。

 この自由平等の理念は、次の2つの面において確保されなければならない。

α.組織内部における自由平等

その最低限の要請として、生産者たち同士は、組合への出資額の多少に拘らず、組合の運営について全て平等な議決権を有すること(一人一票の議決権)。

β.組織の外部に対する自主独立
生産者たちは、組合の外部との関係でも、組合への出資者(出資者は生産に従事するわけではなく、その意味で「協同生産者」でない)に対し、自らの運営決定権を失って彼らの支配の下に置かれるようなことがない。

5人の協同生産者と資金提供者として金融機関・映画会社・テレビ局・広告代理店

  


αは実現。しかし、βは、銀行に生産者A・B‥‥の個人財産を担保に提供させられたり、毎月の返済に追われて自転車操業を強いられる.。或いは作品の著作権は全て資金提供者の手に渡り、そのため、たとえその作品が大ヒットしても著作者たちの元には利益が何も還元されない。まさに「他者を手段としてのみ扱う」関係に追い込まれる。

5人の協同生産者と5人の資金援助者
   全員が株式会社の株主となる場合


βは、株式会社という資本主義が生み出した最大の魔法(金融機関とちがって出資した資金を出資者に返済しなくてよい)が活用でき、毎月の返済に追われることがない反面、
αは、一千万円の資金援助者Pは協同生産者でもないのに会社の共同所有者と認められてしまい、一人で全議決権の3分の1を保有。50万円を出資した協同生産者AやBの20倍の議決権を持つ。これでは協同組合の原則である協同生産者の「一人一票の議決権」から大きく逸脱し、協同生産者は会社の運営決定権を失う恐れがある。さらに、協同生産者同士の間でも議決権に不平等が生じる。

これらの課題を全て解決して初めて「自由で平等な生産者たちのアソシエーション(協同労働・協同経営)」が実現。

①.協同生産者は日々返済に追われることもない、
②.自らの運営決定権を失うこともない、
③.作品に対する支配権(著作権)を失うこともない
 さらにもう1つ、
④.今回の資金援助者は批評空間社の経営に共鳴した市民であり、彼らを危険な立場に置く事態は回避する必要があった。つまり、彼らに無限責任(もし経営が失敗した場合には、単に出資額にとどまらず、彼らの全個人財産までその借金の支払にあてられる)を負わせるうことはできない、出資額の限度でしか責任を負わない(有限責任)でなくてはならない。
そのため、彼らに「生産協同組合としての民法上の組合」に参加し出資してもらうことや、「投資組合としての民法上の組合」に参加し出資してもらうことは、彼らに無限責任を負わせることであり
[4]、そのやり方は採用できなかった。


そこで、現在の法律制度の下で、以上の4つの要請を全て満たすアイデアがあるだろうか――これが批評空間社が直面し解決しなければならない課題だった。

解決のカギは「投資」にあった。つまりカギは「(生産者の運営決定権を失う)投資」にはなく、同時に「(生産者の運営決定権を失わない)投資」にしかなかった。それは、批評空間社が批評空間社に投資すること、つまり、批評空間社に投資するための組織(投資組合)を批評空間社自らのイニシアチブで作り上げることによってのみ可能だった。
予定の出資額(Aは100万円、Bは150万円、Cは200万円、Dは250万円、Eは300万円)のうち、全員が10株50万円分ずつ株式会社の株を保有することにする。残りの出資額(Aは50万円、Bは100万円、Cは150万円、Dは200万円、Eは250万円)は、資金援助者の人たちと一緒に、有限投資組合に出資する。この有限投資組合から批評空間社に出資する。


株式会社

以上により、
αは、生産者全員が発起人になって同数(10株分=50万円)の株式を引き受けて株式会社を設立し、生産者以外には上記有限投資組合が唯一の株式引受人となり、
βは、批評空間社主導の有限投資組合を設立し、そこに、生産者全員の各自10株分を引いた出資金と有志の人たちの出資金全額を出資することにより、
α(組織内部における自由平等)とβ(組織の外部に対する自主独立)の両方の問題を解決した。
 つまり、批評空間投資組合(資金調達のための組織)と株式会社批評空間社(生産活動のための組織)の総体を、生産協同組合としての批評空間社と考えた。


設立手続の年表
2000
1月上旬
批評空間社を生産協同組合の方式で立ち上げることを決定。
以後、具体的な形態を模索・検討に入る。

4月
本格的な法律の検討に入る。

6月
具体的な形態として、資金調達は投資事業有限責任組合、営業形態は
株式会社の案、ほぼ固まる。

10
投資事業有限責任組合の契約書案文の作成・検討。

10月中旬
発起人間で設立契約書(資金調達は有限責任組合、営業形態は株式
会社を内容とする)の調印。

10月末~
第三者に出資の依頼(年内いっぱい)

12月上旬
有限責任組合の銀行口座開設。以後、出資の振込開始。

1223
以後、出資者、順次 有限責任組合契約に署名捺印。

1229
株式会社批評空間の定款(案)作成。
2001
1月末
有限責任組合契約の署名捺印・出資ほぼ完了

2月2日
投資組合の登記申請

同月9日
同 登記完了

同月12
株式会社批評空間の設立手続の書面に署名捺印完了

同月19
株式会社批評空間の設立登記申請

同月23
同 登記完了
     
※参考文献 株式会社批評空間と批評空間投資事業有限責任組合の設立について

  

[1] http://www.riaj.or.jp/chronicle/
[2] なぜ主体的条件が必要か。著作権法が本質的に300年間ずっと停滞してきた原因の最大は理念の喪失にある。法律とは本来単なる技術でなく、あくまでも「或る理念に基づいて構成されたシステム」である。理念を喪失したため300年間停滞を続ける著作権法の現実から、逆説的に法律の正体を思い知らされる。理念を喪失したとき、法律は単なる「強者による現状肯定のイエスマン」に堕すから。
[3] ソニーの井出伸之社長曰く「大昔、隕石が恐竜を絶滅させた。インターネットは現在の産業社会に落ちた隕石だ」(2000年)
[4]民法上の組合は参加者に無限責任を負わせている。

2015年度映画大学集中講義のレジメ1:著作権法の過去と現在(2015.7.23)



著作権法とはどんな法律か?それは今どんな課題を抱えているか?

2015年7月23日

レジメ→ ワード版


1、著作権法の起源
 著作権法の未来は著作権法の起源にある。
 ゆえに、著作権法の起源の考察なしに、未来も考察できない。

小説は何処へ行くか、と問われるとき‥‥その問いは、小説は何処から来たか、という問いとほぼ同じである。衰弱した小説とは、小説は何処から来たか、というジャンルとしての自己反省を忘れた小説であり、また、混血=分裂による超ジャンル性すなわち『いかがわしさ』の自己意識を忘れた小説である。つまり、小説の未来は小説の過去にある。」(後藤明生「群像93年1月号」322頁以下)。

今、著作権法は転換期にあると言われている、言い換えればどんづまりにある。そこで、どんづまりの衰弱した著作権法とは、著作権法は何処から来たか、という自らの起源のことを忘れた著作権法のことである。つまり、著作権法の起源に関する「いかがわしさ」の自己意識を忘れた著作権法のことである。

小説の未来は小説の過去にある、と後藤明生が書いている。小説が何処へ行くかを問うには、それがどこから来たかを問うべきである。ただし、この『過去』は小説史として語られるところにあるのではない。それがわからない人たちは、小説を書き未来の小説について語れ、たんなる過去になるために。
 これはほかの領域にもあてはまる。われわれがどこへ行くのかを問うには、どこから来たかを問うべきである。資本主義の未来は、資本主義の起源にある。しかし、それを普通に問えると思う人たちは、経済学者になり未来の経済について語れ、たんなる過去になるために。」(柄谷行人「批評空間93NO.9」編集後記)

そこから、我々もまた、こう言うことができる。
「著作権法がどこへ行くのかを問うには、著作権法がどこから来たかを問うべきである。著作権法の未来は、著作権法の起源にある。」


法律一般と比べてみて、著作権法という法律は、その正体が他の追随を許さぬほど群を抜いて意味不明なものであり、極めて特異な法律である。
 なぜなら、建前は、第1条の総論で「著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。」と、著作者や実演家(アーティスト・俳優)の権利保護を立派に宣言しておきながら、
 ひとたび各論に入ると、著作者や実演家の実質的な保護にとって必要不可欠な著作物の利用に関する契約において、著作者の保護について一言も触れておらず(その意味で、弱肉強食に任せ)、それどころか反対に、「弱きを挫き、強きを助ける」強者擁護の制度(映画製作者の権利・ワンチャンス主義)すら導入している有り様だから。
 また、著作権と区別してこれに隣接する権利として著作隣接権なるものがどうして認められるに至ったのか、つまり、
 一方で、本来区別されるべき合理的な理由がないにもかかわらず、実演家(アーティスト・俳優)を著作者(クリエーター)から区別して一段低い地位しか与えないことが何ゆえ正当化されるのか、
 他方で、個人ではなく法人しか念頭に置かないような放送事業者や有線放送事業者に、何ゆえ、本来個人にしかあり得ない創作性に由来する著作隣接権が付与されるに至ったのか、その明快な説明がどこにもないという有り様だから。
著作権法のこの耐え難いほどの欺瞞・偽善はどこから来るのか?

――著作権法とは、徹頭徹尾、共同体内部の法律だということ、今までいっぺんでも、共同体を越えたことがなかったこと。それは歴史的に見て明らかである。著作権法が制定されたのは或いは改定されたのは、憲法のように、アメリカ革命時やフランス革命時や第一次や第二次の世界大戦後ではなかった。日本においても、明治の旧著作権法が改定され現在の著作権法が制定されたのが、戦後の新憲法の制定時から20年以上も経過したのち(1960年)のことからも明らか。
 そこには、例えば世界大戦の痛切な反省から現憲法に織り込まれた憲法前文や9条のような、共同体を越える普遍的な人権原理は盛り込まれていない。あくまでも、共同体内部の法律に相応しく、共同体内部の秩序を維持していくために必要な掟でしかない。
 著作権法に即して言えば、コンテンツ(作品)の大量生産(複製)を可能にしたテクノロジー(印刷術・レコードや映画技術・放送)を用いた著作権ビジネスの経済秩序を維持するためのシステムとしての法律にほかならない。それゆえ、著作権法とは、あくまでも著作権ビジネスの主人である産業資本家が自分たちの望む経済秩序を、著作権ビジネスの下僕たち(著作者・実演家・エンドユーザ)に強制するためのものである。

 ところが「歴史の狡知」が働いたのか、その目論見はすんなり実現しなかった。というのは、本来、共同体内部の法律でしかない著作権法は、そのシステムを表現する方法(=法律の目的の達成手段)として、目指す目的(=著作権ビジネスの経済秩序を維持する)に相応しい単純明快な手段を取ればよいのに、ライバルに文句を言わせない大義名分に思いを致すうちに、ついに、本来は下僕にすぎない者(=著作者・クリエーター)を著作権法の主人であるかのように祭り上げる、欺瞞的な紛らわしい手段を採用してしまった。
 それが次の著作権法の起源に関する歴史的な事実。ここで「下僕を主人のように扱う」欺瞞的なアイデアを採用したため(1710年アン法)、その後の、ギルド制度や封建的特権を廃止したアメリカやフランスの市民革命でも、著作権法は廃止されなかった(著作権法がもし、ギルド制度の出版業者をストレートに保護するとなっていたら、市民革命の中で廃止された筈である)。その結果、本音と建前を使い分けて生き延びた著作権法は以後「幻想と紛争と笑いの森」と言われてもしょうがない位、建前(著作者主権)と本音(企業独裁)が錯綜した欺瞞的な法律の道を歩むことになった。





A.当初の【独占状態】の大義名分
グーテンベルクの印刷術の発明以後、出版ビジネスの主役だった出版業者は、最初、自分たちの独占的な出版活動を正当化するために、国王より印刷・出版の独占を保障される出版特権という制度を活用。
        

B.【独占状態】に対する抗争の勃発
然るに、その後、こうした特権を享受する既存の出版業者に対し、これを持たない後発の出版業者たちから「何ゆえ彼らだけがこうした既得権を享受できるのか?」という異議が出され、両者の間に抗争が生ずるに至った。
        
C.【独占状態】の新たな大義名分の獲得
その結果、出版の独占を正当化する根拠として、これまでの国王から与えられる出版特権に代わって、新たなアイデアの創出を迫られた。そこで彼らが苦心の末捻り出したのが→著作者から著作権(当時は精神的所有権と言った)を譲り受けているからだという説明。

すなわち著作権制度とは、もともとコンテンツ(作品)を大量生産(複製)して一般ユーザーに提供して商売をする出版業者のために作られたもの。彼ら出版業者の独占的な経済活動を保障するために、いわば賭場荒しを取り締まる大義名分としてひねり出されたもの(阿部浩二「著作権の形成とその変遷」参照)。
 今日まで、この本質は変わっていない。

2、現代の著作権法の本質とその欺瞞性
著作権法は500年前からこの起源をずっと踏襲している。確かに、この起源は近世のものであり、歴史はフランス革命などの市民革命を経て近代社会に移行したが、にもかかわらず、この点については不変だった。つまり、一貫して次の方程式の中にあった。
「著作権制度­=コンテンツを大量複製して一般ユーザーに提供する産業資本家Xの独占的な経済活動Yを保障するために、それを正当化する大義名分

 この方程式のXとYの中に、当初は、近世のギルド的な業者(印刷業者)と活版印刷術による出版産業が代入されたが、市民革命のあと登場した複製技術に関する新しいテクノロジーのおかげで、Xの中にレコード会社、映画会社、テレビ局という著作権ビジネスの企業が、Yの中に音楽産業、映画産業、放送産業が次々と代入されただけで、この方程式自体は不変のままだった。

ところで、封建制度と決別し、個人の自由・人権を宣言した市民革命後も廃止されず生き延びた著作権法は、人権宣言にならって、表向きは「主役は著作者、目的は著作者個人の権利保護」というスローガンを標榜することになった[1]
しかし、著作権法は、その表向きのうつくしいスローガンとは裏腹に、現実は「主役は著作権ビジネスの企業、目的はこうした企業がスムーズに経営を実施できるための適正な産業経済秩序の維持」が本質であり、その本質がぬけぬけとのさばっており、両者の間には超え難い亀裂がある。その意味で、著作権法は、坂口安吾が指摘した「通俗作家荷風」に似ている――著作権法は「クリエーター・アーティストとは如何なるものか、クリエーター・アーティストは何を求め何を愛すか、そういう誠実な思考に身を捧げたことは一度もない。」だから、法律の中でも「最も不誠実な法律」である。そして、荷風と同様「著作権法のあらゆる条文において、この根本的な欠陥を見出すことができる。」それゆえ、著作権法とは、本来の主人公であるクリエーター・アーティストを500年にもわたって差別と支配と貧困の隷属状態に置いてきた「法律のアフガン」である、と。

、現在の日本の著作権法
 次の8章から構成。
第1章、総則。著作権法の目的の宣言(1条)と著作権法に登場する用語の定義規定などを置いている(1~9条)。
第2章、著作者の権利。権利の客体である著作物と権利の主体である著作者と権利そのものである著作権についての規定(10~78条)。
第3章、出版権。出版社に出版物の独占的権利を認めた出版権という制度についての規定(79~88条)。
第4章、著作隣接権。著作物の創作ではないけれど、それに準ずるような行為を行なう者たちの権利として著作隣接権を認め、その主体となる実演家、レコード製作者、放送事業者、有線放送事業者についての規定(89~104条)。
第5章、私的録音録画補償金。デジタル方式による録音録画機器・記録媒体を用いた私的複製について認められた私的録音録画補償金制度についての規定(104の2~104の10条)。
第6章、紛争処理。著作権などに関する紛争の斡旋についての規定(105~111条)。
第7章、権利侵害。著作権などの権利侵害者に対して差止や損害賠償などの民事上の救済を求めることができ、それについての規定(112~118条)。
第8章、罰則。著作権などの権利侵害者に対して罰則が課せられる規定(119~124条)。


 次に、実質的に見て、著作権法とは、次のカラクリを持っている。
 著作権法の起源で示した通り、著作権法の目的とそれを具体化する手段(=法律構成)とが完全に分裂した法律であること。つまり、本来、著作権ビジネスの主人である産業資本家の目的(=著作権ビジネスの経済秩序を維持する)をストレートに法律構成としても表現すれば単純明快だったのに、それをやらず、著作物の生産段階において、現実には単なる下僕にすぎない著作者をあたかも著作権法の主人公のように(=著作物を創作した著作者に権利が発生するという)祭り上げてしまうという法律構成を採用してしまった。

 そこで、この転倒した関係を元に戻すため、企業の側からの反動的な改正が実施。
つまり現実には単なる下僕にすぎない著作者を法律上もあくまでも下僕にとどまらせるために、著作物の流通段階(=著作物を利用する契約のレベル)において、恥も外聞も顧みず、産業資本家に徹底的に有利な制度を登場させた。これが、単に「契約自由の原則」という名の弱肉強食の採用にとどまらず、一般私法では凡そあり得ないような映画製作者の権利(29条)やワンチャンス主義(91条参照)といった強者の強欲と評されてもしょうがない強きを助け、弱きを挫く制度が導入された。

 さらに、その転倒した不利な関係を少しでも挽回するために、なお著作物の生産段階においても、産業資本家たちは、自らが著作権の主人公として登場する必要性を痛感した。しかし時既に遅しで、主人公の著作者の座はクリエーターによってふさがれており(これに対する産業資本家たちの抵抗が「法人著作」の導入)、かといって、著作者概念を「法人著作」以上に拡大してここに潜り込むわけにも行かず、そこで、苦肉の策として、弱腰の実演家の尻馬に乗っかって、著作隣接権者の一員として、準主役の地位を無理矢理獲得することで一矢報いた。それが既に出版権(79~88条)という独占権を認められていた出版界と映画製作者の権利(29条)といった強欲の権利を持っていた映画界以外の業界である音楽のレコード会社(レコード製作者[96~97条の3]。)、放送の放送局(放送事業者[98~100条]・有線放送事業者[100条の2~100条の4])たちが行なった強者の逆襲である。

 次に、著作権法が「共同体の掟」であることを端的に示すものとして、著作権法がこれまでもっぱら取締まりの対象にしてきたのが、共同体の秩序を踏みにじるアウトローたち、つまり不正コピーの製造販売を業とする海賊版業者たちだった。それは、著作権法が、不正コピーを取り締まるための複製権(21条。著作権法では、著作権に含まれる権利の種類の中で最初に登場する)を中心にして構成されてきたこと、また著作権等の侵害に対して民事罰のみならず刑事罰(119~124条)まで規定してあることからして明らか。

 このように見ていくと、ひとつの謎がまた明らかにされる。それは、これまで、著作権法では、著作物の「創作性」の中身について、ちっとも議論が深まらなかった原因だ――決して、法律家の「創作性」に対する無知・無関心に由来するものではない。それはもともと、複製権中心主義と刑事罰のシステムにおいては、「創作性」とは最低それがありさえすれば足りるのであって、それ以上「創作性」の中身など本質的にはどうでもいいこと。だからそれは、著作権法の本質に由来する制度的なこと。


4、日本著作権法の特色
2つある。
1つは、契約に関する条文がメチャクチャ貧しい。
2世紀前の、契約自由の原則[2]に委ねたフランス革命直後の近代私法のままのように見える。
それは、
(1)、他の国内法との対比:著作権法は一般私法(民法)の特別法だが、同じく特別法である、労働法、借地借家法、消費者契約法などの消費者保護の法と対比してみたとき、経済的強者の契約自由を制限し、もって経済的弱者の自由を確保しようとした近代私法の発展(それが後者)の姿とその差は歴然としている。
(2)、他国の著作権法との対比:ドイツの著作者契約法(2002年「著作者および実演家の契約的地位の強化に関する法律」)に比べてみても、その差は甚だしい。

もう1つは、契約自由の原則によってすでに十分有利な立場にいる経済的強者の地位をさらに強化する制度を導入(映画製作者の権利・ワンチャンス主義)。
つまり、弱肉強食の世界(=契約自由の原則)をさらに進め、「弱きを挫き、強きを助ける」強者保護法になっている。これは、経済的弱者の保護の見地から契約自由の原則を修正してきた近代私法の発展と鮮やかに逆行。


5、著作権の契約に対する法的規制
 では、日本では、ドイツの著作者契約法のように、著作者・実演家を守るための、契約に対する法的規制はないのか。
   ↓
 ある。しかも、著作権法関連法ではないため、著作者がろくに知らない間に作られた。
 それが2004年4月に施行された改正下請法。
 つまり、著作権法の立法担当する文化庁が著作者の契約面での保護に少しも手をつけないので、経済産業省と公正取引委員会の関係者が危機感を抱き、対応したもの。

 その結果、名称は「著作者契約法」ではなく、「下請法」となってしまった(カッコ悪いと言う著作者がいるようだが、むしろこのほうが実態をリアルに反映している)。
下請法の詳細→公正取引委員会のHP ex. http://goo.gl/3CLJ3G

6、日本の著作権契約の実情
 著作者・実演家の権利が骨抜きにされ、彼らに信じがたいほど、不当に重い負担が課せられている。
 例: 著作者人格権の不行使の約束
    制作した著作物・実演から発生した全損害の補償の約束
 
7、著作権法の中の市民(生産者・労働者)VS
企業(著作権ビジネスの覇者)
顕著な対立として、次の3つがある。
(1)、法人著作(15条)
(2)、映画製作者の権利(29条)
(3)、ワンチャンス主義[3](91条2項)




[1] 1787年アメリカ憲法は1条8節8項に著作者について定めた。
[2] 契約を当事者の自治(自由)に委ね、国家が干渉してはならないという近代私法の大原則。
[3] 実演家はいったん映画に出演する許諾をしたら、以後、その映画で録音・録画された実演の二次利用について権利を主張できなくなること。