2015年4月5日日曜日

「やわらかい生活」裁判一審判決の感想(2010.9015)

自ら締結した契約を履行せず、脚本家の著作権を不当に抑圧する契約違反の事態を是正し、脚本家の本来の権利状態を回復するための脚本家たちの「インティファーダー」の闘いの記録です。


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一審判決の感想

1、狐につままれた判決の記事
2010年9月10日に「やわらかい生活」出版妨害差止の裁判の一審判決があった。判決は、「出版妨害をするな」「違法な出版拒否により被った損害の賠償をせよ」という原告らの請求を全て退けた。朝日新聞は次のように報道した。
【脚本の著作権、原作者にも】‥‥裁判長は、脚本の著作権は脚本家だけでなく原作者にもあり、出版を拒む権利があると判断した。≫
これだけ読むと、あたかも原告らは「脚本の著作権は脚本家だけにあり、原作者にはない」と主張したが認められなかったみたいである。しかし、原告らはそんな途方もない主張をしたことは一度もない。1年前の提訴を報道した朝日新聞の次の記事を読めば明らかである。
訴状では、映画化もDVD化も認めながら脚本収録だけを拒否するのは、映画製作会社と原作の版元文芸春秋との契約にある「(2次利用について)一般的な社会慣行並びに商慣習等に反する許諾拒否は行わない」との条項に反するとしており、10年秋発行の「’09年鑑代表シナリオ集」への掲載を求めている。
つまり、訴状によれば、原告らの主張は「原作者の出版拒否は原作使用契約の『一般的な社会慣行並びに商慣習等に反する許諾拒否は行わない』という条項に違反する違法なもの」であった。これが原告らが裁判所に判断を求めた核心である。しかし、判決の記事を読んでもこの核心部分がどう裁かれたのかさっぱり分からない。この意味不明な記事は記者のせいだろうか。そうではない。記者は単に判決を忠実に要約しただけである。その結果、
訴状によれば、原告らの主張は「原作者の出版拒否は原作使用契約の『一般的な社会慣行並びに商慣習等に反する許諾拒否は行わない』という条項に違反する違法なもの」であったのに、この問いかけに対する回答が、判決によれば、「脚本の著作権は脚本家だけでなく原作者にもあり、出版を拒む権利がある」というものだったのである。
ここに今回の判決のエッセンスが集約されている。つまり裁判所は、原告らが求めた問いかけにイエスともノーとも答えず、単に黙殺した。そして、原告らも含め万人が認める「脚本の著作権は原作者にもある」を理由にして原告らの訴えを退けた。
 狐につままれたのは記事のためではなくて、判決のためである。

2、民事の裁判制度の目的から見た裁判所の姿
もともと民事の裁判制度とは何のためにあるのか?現実に発生する個人や社会の紛争を解決するためにある、つまり「紛争解決」が民事裁判の目的である。これが今日の通説である。本件の紛争とは言うまでもなく「原作者の不当な出版拒否により、脚本の発表の機会が奪われるのは脚本家にとって表現の自由の侵害ではないか」である。原告らは裁判で終始一貫、この紛争の解決を求めた。従って、民事裁判制度の目的からしても、裁判所には「脚本家の表現の自由の保障と原作者の著作権の保護との衝突・矛盾」という紛争を解決する責任がある。しかし、裁判所がやったことは原告らが提起した紛争にイエスともノーとも答えず、これを黙殺することだった。だから紛争はなにも解決していない。しかも、原告らは約9ヶ月間の裁判の間、もっぱらこの紛争の解明のために全力を尽くして審理に臨んだ。その間、裁判所から「紛争の解明のための原告らの取組みは必要ない」といった干渉は一切なかった。裁判所は審理の一部始終をずっと見守ってきたのである。にもかかわらず、判決ではこの問題に指一本触れようとしなかった。裁判所は審理の間、一体何をやってきたのか。これでは裁判放棄、任務放棄と言われてもしょうがない。

3、民事の裁判制度の目的から見た被告の姿
実は裁判放棄したのは裁判所だけではない。被告も同様だった。裁判で、原告らは被告に「なぜ、出版拒否をしたのか、その理由を明らかにせよ」と迫った。裁判前の交渉の中で、原告から理由の開示を求められては拒否し続けてきたからである。理由が明らかにならない限り、それが正当なものかどうかも判断できない。だから、原告の要求は当然のことだった。裁判所の手前もあって、被告はしぶしぶ、そして不明朗に理由を開示した。その際、不可解だったことは、被告は代理人作成の書面でその理由を主張しただけで、その主張を裏付ける証拠(それは原作者本人の陳述書である)を一切提出しなかったことである。民事の裁判の大原則は証拠裁判主義であり、証拠に基づかずに事実を認定することはできない。主張だけなら誰でも何とでも言える。それは証拠の裏付けがあって初めて意味をなす。だから、被告も出版拒否の理由を主張する以上、その裏付けとなる証拠を提出しなければ意味がない。そんなことは重々分かった上で、被告が証拠を最後まで提出しなかったということは、「脚本家の表現の自由の保障と原作者の著作権の保護との衝突・矛盾」という紛争と向かいあう気がなかったことを意味する。
民事裁判は原告が裁判の主題(解決すべき紛争)を設定する。しかし、ひとたび訴えられた以上、被告も設定された裁判の主題に対して、自己の信ずるところを主張・立証して結論を出すのが本来の被告の姿である。ましてや表現者であればなおのことである。しかし、本裁判の被告は表現者(小説家)でありながらそれをしなかった。裁判所と同様、被告もまた裁判の主題(解決すべき紛争)から逃亡した。それでは表現者失格と言われても仕方ない。

4、原作者の著作権と衝突する脚本家の権利とは
本件裁判で、被告が出版拒否をした真実の理由を明らかにしないことは原告側が予期していたことである。それは「脚本は活字として残したくない」(出版拒否の回答)や「そもそも、脚本を作成する側としては、原作著作権者と十分に協議して、納得を得たうえで進めていくのが大原則である。」(被告準備書面())に示されているように、もともと脚本家とは原作者の指示通りに制作するただのマシーンでしかなく、従って、その成果である脚本も原作者が生かすも殺すも自由にできる代物でしかないという信念が横たわっている。
しかし、被告はここでいかなる権利の衝突・対立が紛争になっているか、頭に描いたことがないように思える。被告は原作者として著作権を主張する。これに対し、脚本家は原作を単に複製利用する利用者とは違う。自ら執筆し創作した表現者である。従って、ここで原作者の著作権と衝突する権利とは脚本家の著作権だけにとどまらず表現の自由(出版する自由)もある。なぜなら、原作者の出版拒否によって奪われるのは著作権というよりむしろ脚本を発表する自由だからである。
ここで衝突する2つの権利を比較してみよう。原作者の著作権は、所有権などと並ぶ財産権の1つであるのに対し、脚本家の表現の自由とは基本的人権の中核をなす。基本的人権とは個人の尊厳に由来して国家に先立って承認された、最も根源的な、最も尊重されるべき最高の権利であるから、その中核をなす表現の自由がどれほど尊重されなければならないかは世界で一番古いヴァージニアの人権宣言の「言論出版の自由は、自由の有力なとりでのひとつであって、それを制限するものは、専制的政府といわなくてはならない」(1776年)からして明らかである。つまり、本件では財産権の1つである著作権と最も根源的で最も尊重されるべき最高の権利である表現の自由とが衝突しているのである。両者を天秤にかけて軽重を測ったら、どちらがより尊重されなければならないかは自明である。このことを被告も裁判所も全く分かっていない。「脚本の著作権は脚本家だけでなく原作者にもある」のだから、脚本の出版を拒否できるのは当然であるとしか思っていないからである。このように表現の自由を軽々しく制限するものは専制的政府と言われても仕方ない。

5、映像化と活字化 許諾同列に扱えぬ
 判決を報じた日経新聞は「映像化と活字化 許諾同列に扱えぬ」と見出しを掲げた。これは以下の判決文を要約したものである。
本件映画のDVD化やテレビ放送の許諾についても,飽くまでも映像作品(映像化)に関するものであり,これを本件脚本の出版(活字化)の許諾と必ずしも同列に論じることはできない。
これは映像化と活字化は許諾の点で同列に扱えないから、映像化で許諾したからといって、活字化で拒否したことが不当になるわけではないと言うためものである。
しかし、この論理はおかしい。なぜなら、映画は原作(小説など)からじかに作成される訳でない。その間に脚本が介在して初めて映像化が可能となる。その意味で、脚本もまた映画の原作である。であれば、映画ですら利用が拒否されなかったのであれば、その映画の原作にあたる、それゆえ映画に比べより強い保護が与えられる脚本には映画と同等或いはそれ以上の保護が認められて然るべきである。つまり、映画で利用が拒否されなかったのであれば、脚本でも利用が拒否されないのが当然である。言い換えれば、映画(映像化)で許諾しておきながら、映画の原作である脚本(活字化)を拒否するのは原則として不当である。
判決は、せっかく「映像化と活字化 許諾同列に扱えぬ」という映画と脚本の違いに着目しながら、その違いの意味を正しく理解しなかったため、そこから誤った結論を導いてしまった。

6、結論
以上から明らかな通り、判決は原告らが問うた問題に何一つ答えなかった。その意味で、判決の回答は白紙であり、本当の勝負はまだ何も決着がついていない。
原告らが問うた問題のエッセンスは、原告荒井晴彦氏が提訴にあたって述べた「自分の書いた脚本をどうして発表できないのか。理不尽さを感じる」に尽きている。これは脚本家である限り、問うことを止めるわけにはいかない脚本家の存在証明の問題である。脚本家がいる限りこの裁判も終わりがない。
10.09.15 柳原敏夫)

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